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映像表現とモーショングラフィックス

Archive for the ‘映画’ Category

狼子供の雨と雪にみる心臓に良い映画とトレンド

火曜日, 8月 7th, 2012

時代のトレンドを捉える事は大切なことである。映画館でも、大の大人が企画して多数主演している映画海猿は映画館で小さなブースでひっそりと上映され、個人の能力を生かしたアニメ映画の狼子供の雨と雪が、バルト9では海猿とは違い3つのブースで上映されている。どのように構成されているかと言えばもちろん、興行収入を起点としてることだろう。あんなに大人が考えいる海猿は小さくやっているだけなのだ。

この、狼子供の雨と雪を見て思うところは、映画のトレンドである。海猿のようにバッシャンバッシャンうるさい映画ではなく、心臓にやさしいアニメ映画となっている。海外の映画も自分を超えろとシリーズ化された4本の映画もド派手なアクションとビルがぶっ壊れる壮大な映像で迫ってくる古典的なものばかりで、どう考えても見たくもない。

映画にもっとシンプルに流行という考え方と取り入れれば、心臓に悪いような轟音が響き渡るばかりの映画はもはや何を期待していいかわからない。確かに映画には心踊らせる場面は必要ではあるが、何も爆破のシーンでなくてもそれは表現できる訳である。

狼子供の雨と雪であれば、雪山を駆け下りるシーンはとてもこの映画には必須な切迫感のある緊張したシーンとなっていて、それでいて心臓にはやさしい音楽と映像になっている。心温まるというよりは、心洗われる映画でもある。

もちろんシリアスな映画という流れも昔からあるが、そうではない。ただ単にシリアスで感慨深くて、しっとりとした映画と言うわけではなくても、NEWカテゴリとしてまだまだ映画というのはその選択肢はたくさんあることを証明している。アニメであってもスポコンでもなければ、アニメオタクのどうしようもない世界観でもない。未だにΖガンダムやヱヴァンゲリヲンと同じ態度の偽物アニメオタク映画もあるが、あれももはやいくらオタクであっても観ないことだろう。

何が言いたいかというと求められていることのもっと極みを表現すべきであるということ。それでなければ、秀でた新しい概念から生まれる映画でなければ見る意味はほとんどないのである。何かのアンチテーゼでもある映画にとっての存在意義というのをもう少し考えていかないと、大の大人が海猿のようなつまらない映画を作ってしまうことになるのだ。でも、根拠のない自信という脳科学に基づいたそれなりの新しさを盛り込もうとしている点では評価したかったが、つまらな過ぎで途中で席を立った。

ミッション8ミニッツ物理化学と脳科学の多元宇宙論

木曜日, 11月 10th, 2011

ミッション8ミニッツ映画は、あのデビットボーイの息子のダンカン・ジョーンズ監督の作品です。繰り返す事象がとても気持ちよくなっているのが印象的で、このデジャヴのように何度も同じ場面を行き来する映画は見ていてどんどんその世界に入り込んでいく面白さがある。ラン・ローラ・ランや映画デジャヴのように徐々に変化する情景を刻銘に大スクリーンの迫力で迫ってくるのは感覚が麻痺してくるような臨場感があります。

得てしてこの手の映画は好みが別れるところではあるが、個人的には大好きで、映画キューブのような同じセットで永遠と繰り広げられる映画には、次の展開を想像するという思考回路の転換も面白いですし、ただのドハデはアクション映画よりも何か奥行きを感じることがある。ストーリーとしては単に繰り返すので把握しやすいというのが一番であるが、その世界観の統一はある意味永遠の宇宙のように謎めいていて観ている者を翻弄するのである。

ブレアウィッチプロジェクトのような個人レベルの撮影でも可能ではありそうなこの映画手法は今でもまだまだやり方や見せ方はある訳で、2時間のスケールでも十分に楽しめる要素が詰まっていると感じる。今回のダンカン・ジョーンズ監督のミッション8ミニッツは、体が死んでからも脳は8分間は生き続けるという科学的な側面や、今ままで人間が感じることができた4次元(場所と時間)の時間軸が実はもう1軸あるのではという多元宇宙論への物理化学的なアンチテーゼも覗える科学的な映画の内容とはなっていた。

あのような脳だけを使った実験はそう遠くない将来に実現可能なものであるし、それが平然とビジネスとして使われているという社会も決して来ないとも言えない。走馬灯のような映像が何回も流れるが、これも脳の神経回路の問題で誰でも引き起こすことができるので、この実験のような試みが本当に行われているということへの脳科学の進展へのオマージュでもあるだろう。こういった最先端技術や脳を題材とした映画は観ていて面白いが、あのカプセルのような密室空間はちょっと想像力が欠けているとも言える舞台セットでもあった。

ジブリ映画初のノンファンタジー神秘性のない【コクリコ坂から】

月曜日, 8月 1st, 2011

宮崎駿監督作品、コクリコ坂からが上映されている。

ジブリ映画初のノンファンタジー映画となっていて、神秘性といった
今までのジブリ映画の真骨頂や核とされる部分が抜けているという感想を持つだろう。

しかし、ポニョあたりから宮崎駿さんのコアな表現したい部分が出ているような
感じがして、これはこれで見る人によっては楽しむことができる。

さてさて、映画のもう一つの楽しみは、帰りのエレベーターで観た人が
感想をこちょこちょ話すのを盗み聞きするのも楽しみの一つとなっている。

やはり一般的には今回の映画はジブリに期待する神秘性が抜けていたため、
面白くなかったという第一感想が聞かれることが多かった。

YouTubeでも宮崎駿監督が話しているのが、今の若者像への提示ということだった。

東京オリンピック以降、日本人は変わらないと思って生きていると。
特に1980年あたりから、数字を追う経済的な社会になってしまっていると。
宮崎駿さんの20の娘さんが年金の心配を口にするなんて何て愚劣な社会だと。

確かに、コクリコ坂からに描かれていた少女は希望に満ちた快活な生活と
旗を揚げるという行為に、今の社会でも一人の人間として旗を上げて
自分の可能性を信じて生きていきましょうというメッセージを感じる。

崖の上のポニョにも言えることだが、この親子愛的な映画の趣旨は個人的は
なかなか楽しめる内容ではあるが、やはりジブリ映画には神秘性を求めたい
というのも本音であり、社会の意見も同じ方向を向いていることだろう。

映画あしたのジョー セリフ・シーンが足りてない!!!!「力石が死んだ」

火曜日, 3月 1st, 2011

あしたのジョーの映画を見てきた。

ともていい映画だった、本当にいい映画だった。

しかし、このシーンが足りない。どうしても足りていない。

それは、敗者として控え室に戻ったジョーと西と丹下段平のもとに、興冷めした顔で記者がドアを開けて、「り、力石が死んだ」というあのシーンがないのだ。映画だと、試合が終わってから、いきなりジョーが走って医務室に向かうというシーンになってしまっている。そして、原作では、ジョーのあの力石が死んだということを聞いたあとのエクトプラズマのようなエフェクトがかったアニメでのシーンもどしても見てみたかった。

なぜ、このようなことを思っているかといえば、当時時代ではないがあしたのジョーをコミックで買って読み始めていたときは、本当にまだ力石が死ぬということを全く知らないまま、漫画を読んでいたので、学生時代の当時は本当に現実のようにショックを受けたというのを、今でも鮮明に覚えているからである。そのシーンがやはりあの記者の絶望に打ちひしがれた顔で数人立ちすくんでいたあのカットであったのだ。あそこを映画化してくれないで、どうする…。マジでどうする…。

それ以外は、かなり最強の映画であった。

力石徹の後頭部を強打するときのあの映像は、まさに映画そのものであった。山Pもすごいジョーに見えたが、なんであんなにも伊勢谷友介さんは、力石徹になりきって見えるのだろう。まさに、見た目やメイクだけではない、魂の入った役者であると感じずにはいられなかった。

すごく記憶に残る映画だったと同時に、個人的にはどうしてもあの控え室で「力石が死んだ」というシーンは、如実に映画でも表現してもらいたかった。今回の映画の観客はほとんが力石が死ぬのを知っているから…というのはわかるが、死ぬ告知シーンは取り除くべきではないと思った。山P目当てで見に来た力石が死ぬのを知らない女性ファンも、きっと記者のシーンがあったほうが、心にひびいたのではないだろうか。記者をタレントで使うというのは難しいにせよ、あそこだけは場面として欲しかった…。

多分スタッフも相当、当時を思い出して熱がこもっていたのであろう、気合の入り方がヒシヒシと伝わってくる映画であり、すばらしい構成の映画であった。

映画 あしたのジョー

http://www.ashitano-joe.com/index.html

ブルース・リーの映画の効果音が激しい件

金曜日, 1月 28th, 2011

深夜にやっていたブルース・リーの映画。

有名な映画なのかはコンタクトも外してほぼ音だけ聞いていたので、
目もぼやけて見えなかったんが、臨場感は効果音でハッキリあった。

というより、効果音が以上なまでに激しく、当時は画期的だったのだろう。

しかし、今となってはかなり低品質なボコボコ闘う音となっていた。

もともとセリフは少なく、格闘シーンだけで盛り上げる内容なのでしかたないが、
これはこれで音だけでも楽しむことができるほどのビシャビシャ音であった。

音声も吹き替えではなく、中国語だったのでそれも言語としてでなく、
音として捉えることができて、楽しく視聴できたのだ。

音としては、競馬アプリのような実況と馬の走る音に似ている。

映像の表現も時代によって否応なく変容していく。
その次代には良くてもやはりファッションのように数年先を見据えてやることが
進化の過程には重要になってくるだろう。

映画ソーシャルワークの感想

土曜日, 1月 15th, 2011

ソーシャルワークを観てきた。Facebookの成り立ちを映画化したものだが、
これはひどい。というか一般に見人とウェブ系の人と両方が楽しめない…。

焦点がブレまくっていて、いったい全体何がといった感じである。

一般の人に向けてであれば、変性意識状態を生成する方法をもっと入れても
いいだろうし、もっとドロドロというか誇張して描くべきだろう。
ジャスティン・ティンバーレイクがいい感じに演じていたのもあるが、
これでは映画というより普通のNHK特集の方が当方としては見てみたい程だ。

ネット関係のことはほぼ一切でていない。

しかし、得られたものはニーズを拾ったあとの行動の速さといったらない。
第一人者が成功をおさめるのはウェブの常であり、リアルでもそうだろう。
誰かが付き合っているという情報を知りたいとすれば、そういった機能をいれ、
すぐに機能強化していったというところが教訓になった。

プログラマーというところを誇張している訳でもなく、何がマークのすごいところか
を随所にいれていってもらえるともっと楽しめたのではないだろうか。

それにしても天才というより、弁護士との話の裏切り者というのもフォーカスが
薄かった気がする。Facebookの凄さは映画では全然わからない…。

ノルウェイの森 映像表現

金曜日, 12月 31st, 2010

ノルウェイの森を観ての感想は総じて皆いいことでしょう。

思春期の性に対する、若者の葛藤を如実にあらわし、
あの昭和の空気を見事に表現できている映画であった。

村上春樹という原作の素晴らしさはあるが、
松山ケンイチと菊地凛子の演技力もまた素晴らしいものがあった。
菊池凛乎が19歳には見えない…というところは若干あったが…。

二人で言い合っている草原のシーンは、観ているものを
別次元の空気においやることができていたし、
もう一人のお父さんを亡くした彼女の家は何て奥ゆかしい造りなんだろうと
心ときめいていました。ファッションも当時の空気を出すためのものだが、
現在の70年代ファッションとしても普通であろう。

映画タイトルシークエンスの表現

木曜日, 7月 29th, 2010

映画のタイトルシークエンスがとても好きだ。

時間尺が決まっていて、登場テロップは必要に決まっている。
その制限のなかで息を呑むような映像の表現が加わっている。

実写がベースの映画がほとんどであるが、アニメによるシークエンス
表現というのも一風変わった印象を映画にもたらすことができる。

アリ得ないような表現や、映画の印象づけるアイテムや状況を
過度に表現することにより、これから始まる映画の世界観に引き込む
そんな入りの作りが今では主流ではないだろうか。

そして、その役目はディレクターや監督や主役のテロップと、
あらすじめいたものを表現する場であり、モーションタイプの
典型的な表現の場となり、実世界とTypeの美しさが映画感を演出する。